民主主義で憲法改正を安倍氏が唱えだした

自民党を右翼言う場合アメリカだからでしょう野党を左翼で辺野古移設反対を公約にしてる こんな事言ってるみたいね。菅首相、改憲「現状では非常に難しい」 米誌インタビュー

憲法とは我々が国を裁けるものだ・・敗戦でも庶民は裁かなかったものを今の自衛隊を我々が裁くだろうか??コロナ禍で戦争体験も日本人は弱いその煽りの国が出す緊急事態条項に民主主義ならベトナムみたいに市民が武器を手にしなくては勝てないからの発出にも大東亜戦争の時みたいな正義を求める庶民の前で改憲が出来るのだろうか・・これは東京裁判より大東亜戦争の儀が映画などで庶民から支持を得る理由だろうか・・人々の日常と改憲が合わなくては改正は無理だろう・・9条は有っても無くても同じと有識者は言うらしいから内部の緊急事態条項を入れても庶民は赤旗を嫌う政治家に頑張ってもらうとはコロナの様な政治家からのお願いなんだろうか??台湾が一国二制度で中国の軟着陸その後日本を狙う筋書きに庶民とはいつも犠牲者だと感じる。日本の民主主義での改憲はだからドイツのワイマール憲法の死はヒットラーの出現。

民主主義の難しさはアメリカだけではない、日本もだ。この庶民が犠牲になると言うものの考え方が我々一人一人が戦わなくては民主主義にならない訳だから・・

プライムニュースに安倍氏が出ていて国際憲法学者も出演していた、その人が憲法解釈が二分していると言う。日本国だけで考えても自国を自国で守れないは私はおかしいと思うがその言い方と是非共議論してもらいたい。憲法解釈が分かれているのはおかしいからその改正だろうか・・然し中国を相手に日本四分割の1つだよ・・又戦争なんてあったらC級裁判みたいなことないのだろうか??安倍氏の自由で開かれたインド太平洋は決して中国の航行の排除ではないらしいし、アメリカの中国での戦略も中国の発展に止めを刺すものでもないらしい・・日本がもしやられればそれは第三次世界大戦するんじゃないですか??

私はいいんです。天皇家は反省と言っている。国際法に則っている。敗戦国の日本をアメリカが守る安保は国際法ではどのようになっているのだろうか・・アメリカの民主党では安保がおざなりになりがちでアメリカがアメリカらしくなれる共和党だとそうでもない傾向があるらしい・・アメリカ市民が共産圏を望んでいるのが背景だろう。そうだとアメリカはアメリカだけを守ればよくなるから中国の脅威から台湾と日本に圧力がかかる。アメリカのナショナルVSリベラルだろうか・・


以下参照

「日本は世界で唯一戦争放棄をしている国」だと、日本国民の多くは漠然と信じ込ませられている。しかし、その認識はまったくの間違いであり、その責任は憲法学者にあるという。著書に『憲法学の病』(新潮新書)がある、東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授の篠田英朗氏に詳しい話を聞いた。(清談社 福田晃広)

戦争放棄をしている国は

日本だけではない

「自衛隊は違憲」とする憲法学者は少なくないが、国際法も考慮してみると、これは全くの間違いだということがわかる Photo:PIXTA

 日本国憲法9条は、1項「戦争放棄」、2項「戦力不保持」「交戦権否認」を定めた条文から構成されている。この9条が由来となり、日本国憲法は「平和憲法」と呼ばれているわけだ。

「9条は日本独自のものであり、世界に誇れる憲法」だと考えている人は、案外多いのではないだろうか。なぜなら専門家である憲法学者のなかでも、そのような口ぶりで主張する人もいるからだ。しかし、それは正確な理解ではないと篠田氏は指摘する。

「9条1項は、1928年のパリ不戦条約と1945年の国連憲章といった国際法規を前提にしてつくられたものです。互いの文言を比べてみると一目瞭然なのですが、ほぼそっくりそのまま書き写している代物。これらの国際法規範を順守するにすぎないと考えるのが妥当であり、日本だけが特別に設けている条文ではありません」

 つまり、9条1項は、国際法を守ると改めて宣言したにすぎず、世界で唯一なわけではまったくないのだ。

 また、篠田氏によれば、9条1項で定めている戦争放棄の条文とは、あくまでも国際法で違法化されている戦争を行わないことを宣言したもので、ほとんどの国の憲法に9条1項と類似した条項があるという。

9条2項を強引に

解釈する憲法学者

 その前提からいえば、多くの日本国民が誤解しているであろう1項「戦争放棄」の条文とはどのような意味なのか。篠田氏が続ける。

「本来、9条1項が否定しているのは、あくまでも『国権の発動としての戦争』(国家が宣戦布告して他国を攻撃する行為)と、『国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使』なので、自衛権まで放棄しているとはいえません。しかし、大半の憲法学者は、『国権の発動たる戦争』=『国際法上の戦争』、『武力の行使』=『事実上の戦争』と勝手に解釈し、これらを論拠に、すべての戦争を日本国憲法は否定していると主張するのです」

 国連憲章51条では、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と定められている。

 個別的、集団的を問わず、自衛権は国際法で認められている権利だということは、多くの日本人が知らない事実かもしれない。

 9条1項が平和主義をうたった条項であるという認識は、ほかの多くの憲法学者と篠田氏の間でも大きな違いはない。しかし、1項よりもさらに問題になってくるのが憲法学者の9条2項の解釈だという。篠田氏はこう指摘する。

「9条2項は、国際法で違法となっている戦争(war)を行うための潜在力である戦力(war potential)を保持しないことを日本国民が宣言した条項です。これも1項同様、現代国際法を守るための条文であり、憲法学の通説とされている自衛権行使の手段の不保持が宣言されているわけではないのです」

自衛隊は違憲だが改憲は不要!?

憲法学者たちの大いなる矛盾

 篠田氏が語るように、多くの憲法学者は自衛隊の存在そのものを違憲と考えているのが実態だ。

 たとえば、安全保障関連法案の議論が白熱していた2015年6月、朝日新聞が憲法学者209人に集団的自衛権や自衛隊に関するアンケートを行い、121人から回答を得た。その結果、自衛隊は憲法違反にあたると答えたのが50人、憲法違反にあたる可能性があると答えたのが27人と、いわゆる「違憲派」が過半数を超えている。

 また、不可解なのは、自衛隊が違憲と主張しながらも、9条を改正する必要があると回答したのは、わずか6人だったことだ。違憲状態を放置するのは、憲法をないがしろにする行為に思えるのだが。

 憲法に限らず、本来の法律条項の考え方として、2項は、戦争放棄をうたった1項の内容を補強する意図でつくられたとみるのが一般的なのだと、篠田氏は指摘する。しかし、憲法学者は、国際法をまったく考慮せず、言語感覚のようなものだけに基づいて解釈するがゆえに、自衛権と自衛隊の存在も否定するといった驚くべき結論に至るのだ。

 戦力不保持に加えて、もうひとつ2項で言及されているのが交戦権の否認だ。交戦権は国際法には存在しない概念で、これを認めないということは国際法を順守するという意味になる、と篠田氏は説明する。

「これは、戦前の大日本帝国憲法を根拠にした「交戦権(right of belligerency)」を振りかざして、現代国際法を否定しないことを日本国民が宣言した条項。ただし、憲法学者の勝手な主張によって、9条2項は国際法を順守するのではなく、国際法上の自衛権などを否定する条項と一般に説明されることになったのです」

 ここで問題なのが、日本政府もこの「交戦権」否認が国際法順守を意味することを、理解できていない点なのだという。

「政府は、『交戦権』を“交戦国が国際法上有するさまざまな権利の総称”と根拠のない勝手な解釈をして、国際法を受け入れないための条項だなどと言っています。そのため、具体例を挙げれば、日本の自衛隊は、海外で活動中に捕虜になっても捕虜条約の適用を受けないといった弊害が出ているのです」

国際法の視点を持たずして

日本国憲法は理解できない

 憲法学者による憲法9条解釈について詳しく述べてきたが、篠田氏は、憲法学者の考え方に欠けているのは国際法的な発想だと言う。

「これまで説明してきたことからもわかるように、特に憲法9条は国際法と密接な関連性があります。にもかかわらず、ほとんどの憲法学者は、国際法を知らないのか、まったく言及しないのです。私への批判も『国民目線から離れている』『アメリカに従属する気か』といった政治的反感や感情論ばかりで、専門家らしい法律論としての反論や批判が皆無なのは、おかしいでしょう」

 2018年10月30日、韓国大法院が新日鉄住金に対して、元徴用工への補償を命じた。その判決に関して、日本政府は「1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決済みで、この判決は国際法に照らしてもあり得ない」と主張している。

 韓国司法の国際法違反とも取れる判決に、日本国内でも批判が高まっているが、日本の憲法学者の9条解釈も国際法を理解していない点では同じ穴のムジナなのだ。われわれ日本人も国際法を踏まえた上で、憲法9条を理解しなければいけないようである。

(自衛隊は違憲は私のブログから削除されている)考えてみればこんなこと日本国憲法であり得ないことだから削除してた

安倍氏の集団的自衛権の安倍政治

「安倍首相は集団的自衛権行使に舵を切るのか」 『もうひとつの世界へ』第 10 号 西川伸一 結論を先に述べる。安倍晋三首相が集団的自衛権の行使に踏み切ることはな いであろう、というのが私の見方である。だからといって一安心というわけで は到底ない、とすぐに付け加えなければならないのだが。 以下、なぜ安倍は集団的自衛権行使に固執しているのか、しかしなぜそれが 不可能だと考えられるかを論じていく。 1 用語の整理 本テーマを論じる上で欠かせない用語三つをまず整理しておきたい。 ① 集団的自衛権 独立国家であれば、当然自衛権をもっている。そして、自衛権は個別的自衛 権と集団的自衛権に分けられる。前者は外国からの自国への攻撃に対処する権 利をいう。後者は、自国と密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、それを自 国への攻撃とみなして反撃する権利を指す。あくまで自国は攻撃されていない 点がポイントである。 これについて、国連憲章 51 条(自衛権)には、次のように規定されている。 「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場 合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまで の間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」 ②内閣法制局 内閣直属で、政府の法律顧問をもって自認する役所。政府提出法案は必ず内 閣法制局の審査を経なければならない。これを審査事務とよぶ。また意見事務 といって、行政府内での憲法、法律などの解釈を統一するのも、内閣法制局の 重要な役割である。 たとえば、自衛隊の合憲違憲について、裁判所は高度の政治性を帯びた統治 行為だとして、判断を保留している。一方、内閣法制局は「自衛のための必要 最小限度の実力」をもつことまでは憲法は禁じていないとして、事実上自衛隊 を合憲化してきた。自衛隊員に給与を支払うためにも、少なくとも行政府内の 了解として自衛隊は合憲としておかなければならない。 2 ちなみに、内閣法制局のトップは長官だが、主任の大臣は首相である。 ③なぜわが国は集団的自衛権は行使できないのか 日本も国連加盟国であるからには、上記の国連憲章を承認している。すなわ ち、国際法上は集団的自衛権を保有している。しかし、内閣法制局の憲法9条 解釈では、その行使は認められないとされてきた。「保有と行使の分離」だとし て、後述の佐瀬昌盛元防大教授らが強く批判している解釈である。 その解釈によれば、憲法9条も国家の自衛権までは否定せず、従って自衛力 の保有も「自衛のための必要最小限度の実力」であれば禁じていない。ただ、 それが行使できるのは、次の3要件がそろった場合に限られるとしている。 i)わが国に対する急迫不正の侵害がある(違法性の要件)。ii)国民の生命 安全を守るため実力行使以外の手段がない(必要性の要件)。iii)その措置が 侵害を排除する必要最小限度のもので、つり合いがとれている(均衡性の要件)。 これらから導き出されるのは、わが国に許されるのは個別的自衛権の行使の みということである。集団的自衛権の行使は、自国が直接攻撃されていないと いう点で、i)の要件を満たしていない。 2 「必要最小限度」であれば集団的自衛権の行使は許されるのか 安倍首相はこの解釈を改め、現行憲法下でも集団的自衛権の行使を可能にし たいと念願している。 すでに 1999 年4月に安倍はこの問題を国会で質している。そこで安倍はいわ ゆる「保有と行使の分離」を「極めて珍妙な新発明」と揶揄した上で、祖父・ 岸信介の答弁から、集団的自衛権の行使の「外国まで出かけていってその国を 守るという典型的な例」は憲法上禁止されているが、「集団的自衛権というのは そういうものだけではない」という箇所を引いている。 祖父に仮託して、集団的自衛権の行使にも憲法上認められるものがあること を、安倍は示唆したのである。答弁に立った高村正彦外相は、集団的自衛権は 「実力の行使を中核とした概念であることは疑いない」、「我が国の憲法上禁止 されている集団的自衛権の行使が我が国による実力の行使を意味することは、 政府が一貫して説明してきた」と応じた。 この高村答弁から安倍は、祖父のいう「典型的な例」を「中核的な概念」と 同一視したと思われる。そして、「外国まで出かけて」いかない非「中核的な概 念」に含まれる集団的自衛権の行使であれば、憲法上容認されると「解釈」し 3 たのではないか。 当時、安倍はまだ当選2回の「陣笠」議員にすぎなかった。その後、小泉純 一郎首相のサプライズ人事で、自民党幹事長に抜擢された安倍は、2004 年1月 に秋山收内閣法制局長官に国会論戦を挑む。この場で、安倍はかつての高村答 弁を引き合いに出して、こう述べている。 「高村大臣は、この中核概念であるというふうに述べているわけでありまし て、その中核概念とは実力の行使、いわゆる武力行使そのものということを言 っているわけであります。ですから、それでなければ、それ以外の行為につい ては集団的自衛権の行使としてもこれは考え得る、行使することを研究し得る 可能性はあるのではないか」 この考え方は、同じ質疑の中で安倍が持ち出す、集団的自衛権の行使は「数 量的概念」とする把握と表裏の関係をなしている。すなわち、安倍は「集団的 自衛権の行使はわが国を防衛するための必要最小限の範囲を超え、憲法上許さ れない」という 1981 年の政府答弁書について、次のように内閣法制局長官に尋 ねている。 「これは数量的な概念を示しているわけでありまして、絶対にだめだ、こう言 っているわけではないわけであります。とすると、論理的には、この範囲の中 に入る集団的自衛権の行使というものが考えられるかどうか」 必要最小限度の範囲にとどまる集団的自衛権の行使こそ、「外国まで出かけて」 いかない非「中核的な概念」に含まれるものなのである。これはのちに「外的 概念」と言い換えられる。2006 年9月の自民党総裁選に立候補した安倍は、候 補者の公開討論会で集団的自衛権の行使には「中核概念」と「外的概念」があ ると述べたのである。 これに対して、内閣法制局の秋山長官は、先に本稿で示した3要件を満たす ことが自衛権行使の前提であり、集団的自衛権の行使はその第1要件(わが国 に対する武力攻撃)を欠いているゆえに認められないと答えた。すなわち、必 要最小限度という量的な縛りで集団的自衛権の行使をとらえているのではない。 安倍の質疑の単語を少し入れ替えれば、「これは質的な概念を示しており、絶対 にだめだ」ということになる。 安倍は高村答弁などを根拠に、実力行使以外の集団的自衛権の行使も考えら れるのではないかと食い下がった。やや長くなるが重要なので、その秋山答弁 を全文掲載しておく。 4 「昭和三十五年の参議院予算委員会におきまして、法制局長官が、例えば日米 安保条約に基づく米国に対する施設・区域の提供、あるいは侵略を受けた他国 に対する経済的援助の実施といったような武力の行使に当たらない行為につい て、こういうものを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、そういうも のは私は日本の憲法の否定するものとは考えませんという趣旨の答弁をしたこ とがございます。 この答弁は、当時の状況において、集団的自衛権という言葉の意味につきま して、これは御承知のように国連憲章において初めて登場した言葉でございま して、その言葉に多様な理解の仕方が当時は見られたことを前提といたしまし て、御指摘のような行為につきまして、そういうものを集団的自衛権という言 葉で理解すれば、そういうものを私は日本の憲法は否定しているとは考えませ んと述べたにとどまるものと考えております。 現在では、集団的自衛権とは実力の行使に係る概念であるという考え方が一 般に定着しているものと承知しております。」 このように秋山は、かつては定義があいまいであったが、いまでは集団的自 衛権の行使とは武力行使に限られると明言した。 しかし、安倍は秋山の説明に納得していなかった。首相になったのちの 2007 年5月に国会で「私は『必要最小限度』は量的な概念だと認識している」と述 べている。確かに「必要最小限度」という言葉自体は量的概念に違いない。と はいえ、集団的自衛権の行使の前提にはわが国に対する急迫不正の侵害という 質的要件が欠かせない。それを受けてはじめて、自衛のための必要最小限度で、 個別的自衛権が発動される。繰り返せば、集団的自衛権の行使は、必要最小限 度ならば容認されるという量の問題ではないのである。 安倍はどうしてもこの点を理解しようとしない。 3 安倍にみなぎる「双務性」願望 なぜ安倍は集団的自衛権の行使に執拗なまでにこだわるのか。安倍のブレー ン岡崎久彦元駐タイ大使との共著『この国を守る決意』で、安倍はこう語る。 「私の祖父・岸信介は、60 年安保のときに日米安保条約の改定を思い立ちまし た。……それはあまりにも一方的な条約であって、双務性のかけらもない。こ れを持続可能なものにするためには、双務性を高めるべきであり、双務性が高 まることによって、われわれの主張をアメリカにも言うことができる──とい 5 う考えが、祖父のなかにあったのだと思います。……そして、われわれには新 たな責任というのがあるわけです。新たな責任というのは、この日米安保条約 を堂々たる双務性にしていくということです。」(62-63 頁) 安倍はなにかにつけて祖父を引き合いに出す。そういえば、今年5月にゼミ で自民党本部を見学した際、自民党総裁室に案内された。そして、安倍はそこ に飾るため、自宅から祖父といっしょに写っている写真をもちこんだと説明を 受けた。 閑話休題。同書では「血の同盟」という形容まで用いて、軍事同盟として「完 全なイコールパートナー」を目指すとしている。安倍は『美しい国へ』でも、「ア メリカのいうままにならず、日本はもっといいたいことをいえ、という人がい るが、日米同盟における双務性を高めてこそ、基地問題を含めて、わたしたち の発言力は格段に増す」(133 頁)としている。 アメリカに対等にものを言うために、同盟関係の双務性を高めなければなら ない。集団的自衛権の行使を可能にすることはその必須の条件である、と安倍 は信じて疑わない。 果たしてそうなのか。アメリカと対等な同盟関係を築くとはなにを意味する のか。すでにそうした関係にあるイギリスやオーストラリアが、アメリカにな にをさせられているかをみればおおよそ見当がつく。桃太郎帝国アメリカに付 き従う従順な子分が1匹増えるだけのことだろう。 2000 年のアーミテージ報告には、「集団的自衛権の行使を日本が自ら禁じてい ることは同盟協力の制約になっている」と書かれている。もっと使い勝手のい い子分になれと説いているのだ。安倍は 2005 年5月にアメリカで「これまでの 政府解釈は限界にきている。我々の世代の責務の一つは政府解釈を変更して行 使を可能にすることだ」と見得を切った。 4 「二段階革命論」にこだわる理由 とはいえ、解釈変更よりも集団的自衛権の行使を可能にできるように憲法を 改正すれば明快になる。たとえば、山崎拓元自民党幹事長はその著書『憲法改 正』で、「憲法を改正し、自衛権のあることを明記するしかない。集団的自衛権 は、当然のことながら自衛権に含まれる」(77 頁)と書く。しかし、安倍は解釈 変更→憲法改正という「二段階革命論」を描いている。そこには、安倍の恩師 である佐瀬の「入れ知恵」があるとみなしてまちがいあるまい。 6 安倍が成蹊高校から成蹊大学に進学する際、偶然に面接官を務めたのが佐瀬 である。当時、佐瀬は成蹊大助教授であった。安倍は先述の『この国を守る決 意』で、佐瀬の難解な『集団的自衛権』を紹介している。 佐瀬は同書のエピローグで、「私は現行の内閣法制局解釈には重大な欠陥があ るから、将来の改憲の問題はあるにしても、政府解釈の是正そのものが必要だ と考える」(262 頁)と述べている。そして、山崎らの「一段階革命論」につい ては、「現行の内閣法制局解釈の当否についての沈黙は、結果として現行解釈を 正しいとみなすのと同じことになる」(261 頁)と批判する。この佐瀬も、「安全 保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(以下、有識者会議)のメンバーにな っている。 やはりそのメンバーである岡崎も、集団的自衛権を行使可能にすることは「間 違いを修正するだけだから、解釈変更ということではない」と指摘する。そし て「有識者会議では、この間違いを正せればいいと思っている」と意気込む。 したがって、内閣法制局をいかにして説得し、「間違いを修正」させるかが安 倍の大きな課題である。安倍は官房長官時代から、内閣法制局長官との意見交 換を密かに行っている。 5 安倍 vs. 内閣法制局長官 2006 年7月、当時官房長官で約2か月後の自民党総裁選での当選が確実視さ れていた安倍は、首相官邸で阪田雅裕内閣法制局長官と会談する。前記の 2004 年1月の国会質疑と同じ疑問をぶつける安倍に対して、阪田は「戦後 60 年の議 論の積み重ねを一つの内閣が無にすれば、憲法に対する信頼性が根っこから揺 らぎます」と説いた。 これで安倍は納得したわけではない。とはいえ、そこまで頑なな内閣法制局 の顔を潰すわけにもいかない。首相就任後の国会での初の所信表明演説と答弁 は、その意味で「バランス」のとれたものだった。2006 年9月 29 日、安倍は所 信表明演説では「いかなる場合が憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に 該当するのか、個別具体的な例に即し、よく研究してまいります」と述べた。 続く 10 月2日と3日の答弁では、その研究の前提として「これまでの憲法解釈 や国会における議論の積み重ねを十分に尊重しつつ」と配慮を見せた。 阪田は安倍政権発足とともに長官の座を退いている。阪田の長官在任期間は ほぼ2年。通常3年が目安になっていたことからすれば、やや異例の短さであ 7 る。そこに私は、阪田の無言の威迫を感じ取っている。内閣法制局の積み重ね を無視するなら、これからの長官は辞表をたたきつけるぞ、という。 阪田の後任の宮崎礼壹長官は、報道されている限りで3回首相官邸に呼ばれ ている。有識者会議設置に先立って、ひそかに安倍が開いた集団的自衛権に関 する検討会に出席するためである。メンバーは首相、正副官房長官という官邸 のトップに限られていた。宮崎は官邸の正面玄関ではなく、西側出入り口を使 うほど、秘密保持に気を遣った。 有識者会議設置をめぐる意見のすり合わせが、官邸メンバーと宮崎の間で行 われたのであろう。端的にいえば、安倍が解釈変更を宮崎に迫り、宮崎が応戦 するという構図である。その結論は、有識者会議初会合での安倍のあいさつか ら一応うかがい知ることができる。安倍は「これまでの政府見解を念頭に置い ていただきたい」と述べたのである。 一方で安倍は、2007 年5月 11 日の国会答弁で、「今までの法制局の解釈、法 制局というのも内閣の一部局でありますから、トップは私であります。私が最 終的な責任者ですね。今までの法制局長官の答弁も最終的な責任は総理大臣な んですよ」と内閣法制局を牽制している。 確かに、法的に内閣法制局の主任の大臣は首相である。それをあえて確認し てみせ、言外に、首相の指示で法的枠組みを整理することが内閣法制局の職分 であることをほのめかしたのであろう。首相のブレーンである岡崎は、先述の 安倍との共著で「そんな解釈は裁判所が決めたわけでも、憲法に書いてあるわ けでもありません。単に、役人が言っただけですから、総理大臣が『権利があ るから行使できる』と国会で答弁すればいいのです」(74-75 頁)と指摘する。 もちろん、事はこのように単純には運ばない。言うまでもなく、憲法の条文 やそこから論理的に導き出されてきた解釈の積み重ねは、公権力を縛るための ものである。政権の都合のいいように解釈を変えることができるのであれば、 それは憲法の存在理由の否定につながる。歴代内閣法制局長官の口癖は、内閣 が変わっても解釈は変わらない、である。 ちなみに、2007 年5月 23 日の参院本会議で、宮崎は一般論と断った上で、「政 府による、政府の憲法の解釈は……それぞれ論理的な追求の結果として示され てきたものであり、その扱いについては慎重でなければならない」と答弁して いる。 8 6 有識者会議の設置 この板挟みの中で、安倍は有識者会議設置に踏み切った。その設置が発表さ れたのは 2007 年4月 25 日で、首相訪米の前日だった。やはり主権在米なのか。 安倍はこれを手みやげとしてキャンプデービッドでの日米首脳会談に臨んだ。 そこで安倍は、集団的自衛権行使を一部可能にすることを目指した有識者会議 を発足させるとブッシュ大統領に伝えたという。 有識者会議メンバーの人選を中心的に担ったのは、谷内(やち)正太郎外務事 務次官である。安倍が内閣官房副長官であったとき、谷内は官房副長官補であ った。当時、安倍と谷内は対北朝鮮強硬姿勢で歩調を合わせ、一方で両者とも に内閣法制局の「保有と行使の分離」論には強い不満を抱いていた。 さらに、谷内には湾岸戦争への対応をめぐって、内閣法制局に煮え湯を飲ま された思いが澱のようにたまっている。行使容認派をずらりと並べた有識者会 議のメンバーをみると、谷内による内閣法制局への意趣返しのニュアンスさえ 感じ取られる。内閣法制局から正規メンバーの起用はなく、5月 18 日の初回有 識者会議に出席した梶田信一郎内閣法制次長には、発言の機会が与えられなか った。 周知のように、有識者会議では「いかなる場合が集団的自衛権の行使に該当 するかよく研究していく」ために、次の4類型が検討課題とされている。 〈1〉同盟国を攻撃する弾道ミサイルを、ミサイル防衛システムで撃破する 〈2〉公海上で海上自衛隊艦船と並走する艦船が攻撃された場合、自衛隊が反 撃する 〈3〉イラク復興支援のようなケースで、他国軍が攻撃された際に自衛隊が駆 けつけて反撃する 〈4〉自衛隊が外国軍隊を後方支援する これについて有識者会議は今後5~6回議論を重ねて、今秋に提言を首相に 上げる予定になっている。いずれも、「わが国に対する急迫不正の侵害」という 自衛権行使の第1要件からみて、その行使は困難なケースばかりである。 それ以前に、宇宙人襲来レベルとまではいわないが、想定が非現実的ではな いか。たとえば、北朝鮮が開発中のテポドン2はグアムまで届きそうだが、日 本上空を通過する際の高度は数百キロなのに対して、イージス艦のSM3ミサ イルで狙えるのは高度 150 キロ程度である。〈2〉が想定していると思われるイ ンド洋での給油活動の場合、不審情報はレーダーや航空機の哨戒活動で事前に 9 把握できる。〈3〉〈4〉はやや現実的だが、桃太郎帝国の鬼退治に今後も付き 合うことが国益にかなうかを議論することのほうが先決であろう。 7 公明党への「期待」 この文章が読まれるころには参院選はとうに終わっている。そこでよもや公 明党の支援を受けて自民党が勝ってほしいとは思わぬが、この選挙で自民党の 公明党依存がいっそう進めば、公明党は与党内でますます発言力を強めること になる。私は公明党に安倍政権のブレーキ役として大きな期待をもっている。 実は、安倍が先の所信表明演説で「積み重ね」尊重を付言したのは、内閣法 制局ばかりか、公明党=創価学会を考えてのことだった。そもそも、公明党= 創価学会の中には安倍に対する不信感がある。細川政権下で自民党が下野して いた 1994 年、安倍は「憲法 20 条を考える会」という議員連盟に属していた。 これは、連立与党入りした公明党を政教分離の原則から批判するための議連で あった。安倍にはこの「過去」を清算する必要があった。 太田昭宏代表をはじめ公明党の幹部は、ことあるごとに安倍に解釈変更に踏 み出さないようクギを刺してきた。2007 年4月 18 日、首相官邸で安倍と昼食を ともにした太田は、安倍から「今までの政府の考え方を変えるものではありま せん」との言質を引き出している。4月 25 日、北側一雄幹事長も記者会見で「長 年積み上げられてきた政府解釈を見直していくことであってはならない」と語 った。「党の背骨にかかわる平和や安全保障の問題でケンカすることをためらっ てはいけない」という声も党内から聞かれる。 8 落としどころはどこか さて、安倍はこの問題のいわば落としどころをどこに考えているのか。「二段 階革命論」者の恩師・佐瀬らを有識者会議に取り込んだことがミソのように私 は思う。有識者会議はその応援団役のマスメディアを通して、会合のたびに「保 有と行使の分離」の「誤り」を国民にインプットしていくことであろう。4類 型の研究もさることながら、有識者会議の真の狙いはここにあろう。 それでも、集団的自衛権行使について、内閣法制局が首を縦にふることはあ るまい。《佐瀬先生には尽力してもらった、自分も内閣法制局に対して陰に陽に プレッシャーをかけてきた。それでも、内閣法制局は折れない。だからといっ て行使可能を自分が明言しては、内閣法制局も公明党も失うことになる。それ 10 は政権維持という政治的リアリズムからできない。かくなる上は憲法改正を急 ぐほかない。》 このように、安倍は自身が「一段階革命論」に「転向」するアリバイづくり の場として、有識者会議を利用するのではないか。行使容認派をあれだけそろ えて努力したのだから仕方がない、と佐瀬を含めて周囲を納得させる。内閣法 制局の「頑迷さ」を浮き彫りにし、行使へ転換できないことを逆に改憲への追 い風にする。そのしたたかさを警戒しなければならない。 (文中敬称略)

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